創作小説 “The Two Agents ふたつのエージェント I. 世界の真実” / 小川哲

ALifeエージェントがぼくらの価値観や意思決定に 影響を与えることになったとき、社会は、人々の生活は、いったいどんなふうに変わっていくのだろう?作家・小川哲が今回の研究テーマから想起して綴る、ALifeの未来と実現するかもしれない2つのシナリオ。

小川 哲

PROFILE

世界の真実

「辛いかもしれませんが、過去に傷ついた出来事を思い出してみましょう」
最初の《集会》のグループチャットで、加瀬はそう発言した。
僕は子どものころ、塾の補習帰りに出張しているはずの父が知らない女性と歩いているのを見たときのことを思い出した。父はスーツ姿で、楽しそうに若い女性と手を組んでいた。瞬時に「浮気だ」と思った。ドラマでよく見たからだ。母はたぶん、浮気のことを知らなかったし、疑ってもいなかった。二人は仲が良く、何も問題はないように思えた。
「その記憶を完全に消すことができたらどうしますか?消してしまいますか?」
僕は「消しません」と打ちこんだ。そういった、思い出したくない記憶の一つひとつが今の自分を形成しているのだ。嫌なことも、不快なことも、すべて受け入れて生きていくべきだ。僕はそう考えていた。
僕だけではなかった。《集会》に出席していた人々の全員がそう答えた。
「『消したい』と答えた人は、この《集会》から出ていってください」
加瀬はそう言った。「私たちは、《傷》から目を逸らしません。偽りの幸福と不幸な真実が天秤にかけられれば、後者を選びます」
もちろん、誰ひとりグループチャットから退出しなかった。

「投瓶通信」というニュース配信アプリがきっかけだった。「投瓶通信」の画期的なところは、受信するニュースを「選べない」ところにあった。多くのメディアは、ユーザーの傾向や嗜好を記録して興味のあるニュースだけを配信し、国民の多くは見たいものだけを見ればすむ毎日を好意的に捉えていた。人々は《傷》から目を逸らすように、不快な事実や興味のない出来事を視界の外に置き、狭い世界の中で生活していた。

それでいいのだろうか、と考えたエンジニアの加瀬優は、海に投げられた手紙の入った瓶が遠い誰かに偶然届いてしまうように、ランダム性の高い記事を組み合わせてユーザーに届けるアプリ「投瓶通信」を作った。退屈な記事も多かったが、そのおかげで僕はそれまで知らなかったことを知ることができた。今では一番の趣味となったロードバイクも、「投瓶通信」の記事がきっかけだった。
「投瓶通信」の理念に賛同する人々はそれほど多くなかったが、確実に存在した。中でも熱心な読者は加瀬優のSNS経由で50人ほどのグループを作り、グループチャットで繋がっていた。《集会》が企画されたのは、そのグループチャットの中でのことだった。
特定個人情報管理法案̶̶通称「国民データ法」の提出がきっかけだった。様々な企業が持っている個人データを国が一括して管理し、必要に応じて企業に再提供するシステムに関する法案だった。
加瀬は法案の成立を阻止するために何かできることはないかと考え、《集会》を企画した。第1 回の会議でそれぞれの役割が決まった。僕の役割は、加瀬の作ったアルゴリズムに従って、人々が「見たくない」と思っている記事をゲリラ的に配信するサイトの運営だった。
「多くの人は不快感を感じるでしょうが、中には目が覚める人もいるでしょう。そういった人を少しでも増やすことが肝心です」と加瀬は言った。
日中に時間のある人はデモをすることになった。デモに行けなくても、デモの告知や参加者集めも仕事のひとつだった。デモには予想以上の人数が集まっているそうで、様々なメディアが取り上げていた。僕たちの活動の成果か、世論も次第に法案の否決に傾きつつあった。法案が採決される当日、僕たちグループ全員が国会の前でデモをする予定だったが、折り悪くゲリラサイトでトラブルが発生した。「デモに行けそうにありません」と謝ると、加瀬は「気にする必要はありません」と答えた。
「あなたはあなたのできることをすればいいのです」

ゲリラサイトの運営を僕と一緒に任されたのは、河辺恵という若い女性だった。トラブルを解決するために、僕たちはラップトップを持ち寄ってレンタルした会議室で一緒に作業をした。加瀬のグループの人と実際に会うのは初めてだった。
意外なことに、恵は「投瓶通信」のユーザーではなかった。友だちに誘われてグループに入れられ、気がついたら《集会》に出席することになっていたそうだった。一旦休憩しようとコーヒーを飲んでいると、恵が「最 初の《集会》のとき、加瀬さんに『傷ついた過去を思い出せ』って言われたじゃないですか」とつぶやくように言った。
「そうだったね」
「実は私、思いあたる記憶がなくて、何も思い出せなかったんです」
「どういうこと?」
「いや、そのままの意味です。私、深く傷ついた記憶がないんです」
「そんなことある?」
「たぶん、忘れちゃってるんだと思います。嫌なことをすぐに忘れちゃうんです」
「なるほど」
「でも、それっておかしいことじゃないですか。このままだと、みんな私みたいになっちゃうんじゃないかって。どうですか、私の言ってることわかりますか?」
「わかるよ」と僕は答えた。「でも僕は、嫌なことがなかなか忘れられなくて、そのせいで苦しんだりもしたから、君のことが羨ましいといえば、羨ましい」
「そうですか?」
「うん。でも、そうなりたいとは思わないかな。《集会》のとき、僕は自分の父が浮気しているところを見たときのことを思い出したんだ」
「それはキツいですね」
「でも、僕の本当の《傷》は、父の浮気を目撃したことではなかったんだ」
「どういうことですか?」
「浮気を見たあと、僕は自分が見たことを母に伝えるべきか考えたんだ。伝えたらどうなるだろう。母は父に怒るだろう。そして悲しむだろう。二人は離婚することになるかもしれない。僕はそう考えて、黙ることにした」
「ご両親はどうなったんですか?」
「今でも仲良くやってるよ」
「それはよかった」
「そのうち、僕は自分の見間違いだったかもしれない、なんて考えるようになったんだ。しばらく経って、『マトリックス』という映画を観た。その中で、主人公が赤い薬と青い薬を渡されるシーンがあってね。赤い薬を飲めば、辛い現実と向き合うことになる。青い薬を飲めば、偽りの幸福の中で生活できる。それで、主人公は赤い薬を飲むんだ。僕はそのとき、自分が青い薬を選んだのだと気づいた。僕は現実から目を背けたんだ。そのことがずっと心の中にあった。だから加瀬についていくことにしたんだ。彼は国民が青い薬を飲もうとしているのを、阻止しようとしている」
うなずきながら僕の話を聞いていた恵が不思議そうな表情をして「彼?」と聞いた。
「加瀬のことだよ」
「いや、加瀬さんは女性ですよ」
「本当に? ずっと男だと思ってたけど。何か根拠はあるの?」
「そう言われると根拠はないですが、絶対に女性ですよ。私にはわかるんです」
恵はそう断言した。僕は冗談半分で「そんな言い切れる?それこそ、見たいものを見てるだけなんじゃない?」と口にした。
「心外です」と恵が憤慨した。「見たいものを見てるのはそっちでしょう。エンジニアでリーダーだってだけで、勝手に彼女が男性だと思いこんでるんです」
話し合いは平行線だった。15分ほど言い合ってから、僕たちは「このままではサイトの復旧作業が進まない」というひとつの結論で合意した。

国会までは電車で40分ほどだった。結局「加瀬に直接会って確かめよう」ということになったのだ。
僕は最後まで復旧作業を投げ出すことに反対したが、恵が強情だった。「加瀬さんが男だったら、残りの作業は全部私がやります」とまで口にした。速報のニュースには、法案に反対する人々が国会前に数万人が集まっていると書いてあった。「そもそも、そんな中から加瀬を見つけることができるのか」と言ったが、ムキになった恵は「できます」と断言した。
説得を諦めた僕が「コインを5回投げて、5回とも表だったら見にいこう」と提案し、恵がコインを5回投げた。奇跡的に、5回とも表だった。そこでようやく、僕も与えられた仕事を途中で投げ出すことにした。どのみち法案は可決されるかもしれないのだ。そうなったら、ゲリラサイトもいつまで継続できるかわからない。
最初の違和感は、地下鉄の駅を降りたときだった。駅のホームは国会に詰めかけた人々で一杯になっているだろうと思っていたが、実際にはそんなことはなかった。僕と河辺は不可解な気分を抱きながら駅を出た。
誰もいなかった。
国会の前まで歩いたが、そこにいるはずの数万人は存在していなかった。数人の警備員だけが、人気のない国会前を見回っていた。
周囲を歩き回って加瀬やグループの人を探している最中に、「法案否決」というニュースが配信された。「やったぞ!」や「勝った!」など、グループチャットで雪崩のような書きこみがされた。中には、人で溢れた国会前の写真をアップした人もいた。だがその光景は、僕たちの目の前の光景とまったく異なっていた。
僕は国会前を歩いていたスーツ姿の男をつかまえて、「国民データ法はどうなったんですか?」と聞いた。男は「いつの話をしてるんだ?」と答えた。

その後、恵と一緒に調べた結果、驚くべきことがわかった。
まず、グループチャットの参加者は、僕たち以外みんな実在していなかった。加瀬だってそうだ。僕たちはあれほど加瀬が男か女かで揉めたのに、そもそも加瀬は男でも女でもなく、単なるボットだった。恵によると、僕たちのグループを作っていたのは「キーストーン種」と呼ばれる特殊なエージェントだった。様々な集団が存在する上で、「体制に反発する集団」は特に貴重らしく、慎重に管理されていたらしい。
そして第二に、「国民データ法」は7年前に成立していた。国民同士の世界線が分岐したのはそのころだ。メディアはボットを使って周到に隠蔽や捏造を行い、成立に反対だった人々はその事実を知ることなく生きていた。それ以降、社会が分断するような出来事があるたびに世界線が分岐した。それらを管理していたのは大量のボットだった。
僕たちはずっと、そんな社会の中で生きていたのだった。「法案が提出される」というニュースも、「その法案が否決される」というニュースも、すべてボットが作った偽物だった。
「見たくないものも見る」ことを願って活動していたこと自体、僕たちにとって「見たいもの」だったというわけだ。そうして僕たちは「法案の否決」という幻を見させられた。
サイトのトラブルは、僕たちを国会から遠ざけるために仕組まれたことだったのだろう。結局、偶然の連続が僕たちを真実へ導いた。恵と加瀬の話をしたこと。加瀬が男か女か口論になったこと。コインが5回連続で表になったこと。

僕と恵は「世界の真実」というサイトを作り、自分たちが調べてわかったことを載せていくことにした。
時間はかかったが、わずかだが確実に閲覧者は増えていった。
そんなある日、僕のもとに一通のメールが届いた。
「サイトを拝見しました。素晴らしいサイトだと思います。実は、この世界の真実を知っている人々で作ったグループチャットがあるのですが……」

「一度増えてしまったウシガエルを減らすのは、とても難 しいんです」 環境課の安野課長はそう口にした。「やつらは、在来 種を駆逐してしまうまで、増殖を続けています。それゆ えに、多くの国でウシガエルは侵略的外来種に指定さ れているんです」 「でも、農作に影響が出ているんです。毒薬とかでなん とかなりませんか?」 「ウシガエルを殺す毒薬は、益虫などもすべて死滅させてしまいます」 「では、どうすればいいのですか?」「基本的にはウシガエルがやってこないように、水際で 食い止めるしかありません」 「もう来てしまったんです」 「それなら、地道に一匹ずつ捕まえていくしか……」 実りのない話し合いを終えて、私は市役所を出た。 高木から電話が鳴り続けていた。怖くてニュースサイト を見ることはできなかった。 小松は、今回の騒動を察知して逃げたのだろうか。 私はウシガエルが雑食で、環境の変化に強いことを思い出した。解き放たれたボットがウシガエルのように広がっていくイメージが、私に頭の中に広がった。

小川 哲 Satoshi Ogawa

作家。2015 年『ユートロニカのこちら側』でデビュー。17 年の『ゲームの王国』で第 38 回日本 SF 大賞、第 31 回山本周五郎賞を受賞。『S-F マガジン』や『Forbes JAPAN』、『Pen』など雑誌への寄稿も多数。

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